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| 時は今から約400年前の慶長6年(1601年)、本多富正公が京都伏見から越前府中(現・生市)へ赴任してきたおり、金子権左衛門なる「そば職人」を連れてきました。家老本多富正公は府中藩主として、水利や(今でも武生の街の中央を用水が流れています)産業など街の発展に尽力しました。そして城下の人々に非常食として蕎麦の栽培や、大根おろしを蕎麦にかけて食べることを奨励し、これが「福井のおろしそば」の発端であると言われています。 大根おろしを蕎麦にかけて食べる同様の食風習は、全国にもあちらこちらにありますが、領主が、飢饉や災害の非常食にと栽培を奨励したのは、全国でも非常に珍しいことで、現在に至るるまで営々として受け継がれてきました。 |
![]() 「水回し」・・・そば 粉に均等に水を 含ませる |
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「こね」・・・そば玉 の外側を内に返 すように「菊練り」 |
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| 福井では昔から「越前そば」という名前で呼ばれていたわけではありません。時は昭和22年、昭和天皇が福井県へお出ましになられた節に、初めて「おろし蕎麦」をお召し上がりになられました。その印象が強かったのでしょうか、皇居へ帰られてからも、ことあるごとに「あの越前の蕎麦・・・、」とお言葉にされたということを関係者から耳にし、以来、皆が 「越前そば」と呼ぶようになりました。 | |||||||||
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| 昭和22年、昭和天皇が福井にお出ましの節、武生の「山甚別荘」にお泊りになられました。 その時の夕食の献立の一品に、「おろしそば」を添えた方がいました。 その方は、当時の天皇の料理番、秋山徳蔵氏です。 秋山徳蔵氏は、明治38年、武生市北村町で生まれ、橘町の乾物屋「八屋(ハチヤ)」での奉公を経て、フランス料理の修行のため明治42年21才で渡欧しました。その後、明治46年25才で皇居の厨司長として招かれています。(後に、当時世界で10人ほどのフランス料理アカデミー名誉会員に推挙されました。) そして、その「おろしそば」を作る御命が下ったのが、司馬遼太郎著「街道を行く」に登場する6代目「うるしや」の主人、梅田総七氏であります。 「その際、厳格な検査・審査のもとで非常に仕事が大変だった」とは、主人の言であります。 昭和天皇がその「おろしそば」を召し上がられ、普段されることのないない「御代わり」をされたことは有名な話しです。 |
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「のし」・・・花粉(は なこ)をふりながら 均等な厚さに伸す |
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| * 福井の「おろしそば、ありャ〜〜うまいぞォ〜〜」と言ったのは、 民芸の宇野重吉氏。 *「こたえられないね」、 詩人の中野重治氏も(新劇愉しうれし)のなかで同調した文章。 *幕末の有名な福井の歌人・橘曙覧の一首 「蕎麦の実の 角をとりたる主じぶり まくる居よりて 腹鼓うつ」 |
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![]() 「切り」・・・包丁の 重さを利用してリズ ミカルに切ります |
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![]() 「ゆで」・・・重ならな いように、パラパラ と入れる |
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| 「そば」は、栄養学的にバランスのいい優れた食品です。タンパク質をはじめ、脚気などを予するビタミンB1のほか、今話題の「そばポリフェノール」やアミノ酸・リノール酸・ミネラル、そして食物繊維も豊富です。 中でも麺類でそばだけに含まれる「そばポリフェノール=ルチン」は、毛細血管の働きを強くして、高血圧や脳溢血、動脈硬化症、生活習慣病などに効き目があります。特にルチンは、ビタミンCと同時に摂ると、その働きが一層増すので、「おろしそば」は成人病予防に恰好の食べ物です。 さらに、肝臓機能の強化に効力があるコリン、血管の老化を防ぐビタミンEなども含まれ、健康を支える栄養素がいっぱいです。 |
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